6年前の富士通退職エントリ兼これまでの仕事人生を振り返る
この記事は、楽しかった職場 みんなのF2 Advent Calendar 2018 の20日目の記事です。
はじめての方ははじめまして。株式会社MMMでソフトウェアエンジニアをしている下條真嗣と申します。
2006年に富士通株式会社に入社し、2013年に退職、10ヶ月の海外放浪の後、株式会社MMMでソフトウェアエンジニアをしています。
まずは富士通時代の略歴などから。昔話になってしまいますがご容赦ください。 なお、私が富士通を退職したのは既に6年前のお話ですので、現時点での事情は分かりませんのでご了承ください。
2006年6月 ミドルウェア部門に配属・研修
全体研修の後、ミドルウェア部門に配属されました。確か40人ほどだったと思います。OSやC・Javaの座学研修の後、5名ほどのチームでOccamという言語のコンパイラ及びランタイムをJavaで作るという課題に取り組みました。情報系出身でない私にはかなりハードルの高い課題でしたが、必死でコンパイラの作り方の勉強をした記憶があります。もちろんチーム開発なので分担をしたのですが、私は主に構文解析の部分の実装をしました。
2006年8月 ミドルウェア品質保証部門でのOJT
研修のあとは、皆がいったんミドルウェア品質保証部門に所属し4ヶ月ほどの研修 (OJT) がありました。ここでは私はある製品の出荷前の検査をしたのですが、生意気ながらもひたすら厳しい指摘をし、今思えば開発部門には嫌がられていたかと思います。ただ、最後にはぜひ検査部門に欲しい人材だと言われた記憶があり、ありがたいことです。
2006年12月 運用管理ミドルウェア開発部署に配属
運用管理ミドルウェアの1コンポーネントの開発保守チームに配属されました。1コンポーネントといってもWindows, UNIX (Linux, Solaris, HP-UX, AIX) でソースコードが分かれており、トータルのコードベースで100万行はいかないまでもそれまで経験したことのないような巨大なソースコードであり、最初は量に圧倒されました。
さらに私が担当したコンポーネントは複数の製品から利用されているものである上、製品全体のポリシーとして基本的に非互換は出さないというものがありましたので、どう見ても謎に見えるバージョン条件分岐など非常に苦しめられましたが、このときの経験は特にコードリーディングの非常に良い訓練になりました。
印象に残っている仕事は色々ありますが、自分にとっての初めての製品の本格的な開発で大量にバグを作り込み、リリース後に大変なことになったのは非常に印象に残っている思い出です。メモリリークも作り込みまくりました。当時はいろんな方にご迷惑おかけしたと同時に助けていただきました。つらいこともありましたが、自分が開発した機能でお客様が喜んでいるという話を聞くと本当にうれしかったものです。
もともと適当な性格の私ですが、エンタープライズな仕事に深く関わったことでエンタープライズな世界での品質要求レベルというのがよく理解でき、当時の経験はWeb業界に来た今でも非常に活きています。一人前のソフトウェアエンジニアに育てていただいた富士通時代の上司や同僚の方々には感謝の言葉しかありません。
2013年2月 富士通退職、そして海外放浪
2013年2月に7年勤めた富士通を退職しました。当時、海外勤務や海外での生活をしたいという思いが強くあったのですがすぐには叶いそうになかったことから、それだったら自分から出ていこうということで海外放浪してきますと言って退職しました。
世界一周すると言って旅に出ましたが、実際には半年ぐらいタイにいたおかげでタイにも詳しくなりました。それ以降もタイには頻繁に行っており、今ではタイ語も多少しゃべれるようになりました。日本語、英語、タイ語のトリリンガルを自称している私です。一応世界一周はして20カ国ぐらいは行きました。その時の写真の一部はFlickrにあげてあります。
世界一周という割にはその過程では特段に何もしなかった充電期間のような10ヶ月ではあるのですが、自分にとって一番印象に残っている瞬間があります。
タイのチェンマイからラオスのルアンパバーンまでバスで移動しているときの話でした。移動自体がほぼ丸一日24時間近くかかる過酷なものだったのですが、特にラオスに入ってからの深夜バスが満員かつ道が悪くて激しく揺れるほか、爆音で音楽がかかっており非常につらいものでした。しかし、つらいながらも生きている幸せを激しく感じた瞬間があったのです。幸せというのは相対的なものではなく、自分の心の中に絶対的にあるものであり、どんなときにも感じることができるということを理解した瞬間でした。それ以来、自分が人と比較してどうこうといったことを一切考えなくなり、常に幸せを感じられるようになりました。
というわけで、色々な心の変化があったり、見聞を広められたという意味で非常に意義深い10ヶ月でした。
次の仕事は日本に戻ってから決めればいいやと思っていたのですが、放浪中に純粋な興味でRuby on Railsなどを触ってTwitterでつぶやいていたところ、現在の会社の役員である高校同級生の佐々木の目にとまって声をかけられ、Web業界もいいかなと思っていたこともあり、株式会社MMMに入社することにしました。
2013年12月 株式会社MMM入社
2013年12月にMMMに入社しました。当時は役員2人でやっていた会社で、私が最初の社員です。結果的に大企業から3人の小さな会社に転職したわけですが驚くほど違和感はありませんでした。おそらく小さな会社の方が自分にとって肌に合っているのでしょう。小さな会社には余分なことがありません。社内調整などは皆無に等しいので、お客様への価値提供に直接的に注力することができます。
私が入社後5年ほど経過したわけですが、少しずつ大きくなり現在は8名となっています。そして来年早々もう一人増えることが決まっています。
関わってきた仕事としては大きくは以下の3つです。
- Webシステムのバックエンドアプリケーション開発 (Ruby, Go, Java等)
- Webシステムのインフラ設計・構築 (AWS)
- Webシステムのインフラ・アプリケーションの運用・監視
受託案件が主ですが、色々なジャンルの仕事ができるという意味で知識の幅が広がりましたし、特にAWSに関しては
- AWS Certified Developer Associate
- AWS Certified Solution Architect Professional
の資格を取得したほか、実際非常に使い込んでおり、自信を持っている部分です。
直近では半年以上に及んだフルサーバーレスでのモバイルアプリケーションバックエンド開発という非常にチャレンジングなプロジェクトが一段落したところです。私自身はバックエンドの開発兼プロジェクトマネージメントに携わりました。お客様のブログでも会社名を出してご紹介いただいているのでリンクを張っておきます。
社内での立ち位置としてはWebシステムの開発・運用がメインですが、最近は規模の大きなプロジェクトも増えてきており、プロジェクトマネージャ的立ち位置になることも増えています。また、小さな会社ですので幅広い仕事に関わることができ、特に採用活動は色々な方にお会いできることから楽しい仕事のひとつです。
また、会社はフルリモートワークを採用しており全メンバーが別々の場所で働いています。私は普段は名古屋のコワーキングスペースであるベースキャンプ名古屋さんで働いています。様々な仕事をしている方とお会いできるのは非常に刺激的です。私の紹介を書いていただいた記事もありますので、よければご覧ください。なお、この写真のときは一番太っていた時期で今はもうちょっとやせています。
最後に
大げさですが、富士通を辞めたことは自分にとって今までの人生で最良の決断だったと思います。少なくとも、最も大きな転機となったことは間違いありません。富士通時代もそれなりに楽しかったですが、今は仕事含め人生が楽しくて仕方ありません。
富士通時代は友人の中心は会社の同僚が多く比較的狭い世界に住んでいた気がしますが、現在はコワーキングスペースでの友人や飲み屋で知り合った友人など、友人の幅が非常に広がってきています。世の中には本当にいろんな人がいます。ちょっと語弊があるかもしれませんが、どうやっても生きていけるんだという根拠のない自信も生まれました。
私は、今年4月に惜しくも亡くなったAviciiのTroubleという曲の一節が大好きです。
I may not be perfect, but I’m loving this life.
私ももう40代に近づいてきました。今後は自分の能力をより世の中のために活かしていけるような仕事をしていきたいと思っています。そして、これからもずっと自分の人生を愛し続けていきたいと思います。
若干エモい文章になってしまったので最後に、、、
この文章を書く機会を作ってくれた富士通株式会社ミドルウェア部門同期の@tnaotoに感謝いたします。
それでは皆さまよいお年をお迎えください。